伝説の大女優マリリン・モンロー(Marilyn Monroe)の写真が12月16-17日、米ニューヨーク(New York)で競売に掛けられる。出品作品には、通風口の上でめくれ上がった白いスカートをおさえる、彼女の象徴的な写真も含まれている。
◆「7年目の浮気から」有名なスカートめくりのシーン
Marilyn Monroe deleted scenes from Seven Year Itch
今回の競売には、ゲイリー・ウィノグランド(Garry Winogrand)撮影のモンローが通風口の上で微笑みながらスカートをおさえる作品や、1万-1万5000ドル(約91-137万円)の値がつくと予想されるトム・ケリー(Tom Kelley)撮影の米男性誌・プレイボーイ(Playboy)創刊号に使用されたモンローのヌードなどが出品される。
ニューヨークのオークションハウス・クリスティーズ(Christie's)によると、今回は過去最大規模の出品になる見通しで、モンロー作品以外にもヘルムート・ニュートン(Helmut Newton)ら著名な写真家の作品が競売に掛けられる。(c)AFP
★マリリン・モンロー(Marilyn Monroe, 1926年6月1日 - 1962年8月5日)は、アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス出身の女優。本名ノーマ・ジーン・モーテンセン(Norma Jeane Mortensen)、その後改名してノーマ・ジーン・ベイカー(Norma Jeane Baker)。1950年代中盤から現在に至るまで「アメリカのセックスシンボル」と称される。モンローというスクリーンネームは彼女の母親の姓である。
Marilyn Monroe
身長166.4cm 体重53.5kg
スリーサイズ バストB94cm ウエストW61cm ヒップH86cm
トレードマークは、真っ赤に塗られた唇、口元のホクロ、モンロー・ウォークと呼ばれた独特な歩き方。フェラガモに作らせた靴のサイズは、24.5cm。ノルウェー人の血を引いているといわれるが、本当の髪の色はブロンドではなく褐色(ブルネット)であった。
経歴
生い立ち
ノーマは片親家庭に生まれた。アメリカ合衆国には戸籍がないので、出産直後に医者が書く出生証明書が法的な意味をもつことになっている。彼女の出生証明書には、父:モーテンセン、氏名:ノーマ・ジーン・モーテンセンと記載されていることから、彼女の本名はノーマ・ジーン・モーテンセンであることに異論はない。
しかし本当の父がモーテンセンであるかどうかは疑わしい。彼女の母グラディス・モンローは「あなたのお父さんはベイカーよ」とノーマに告げていたとされる。ノーマ自身もそう信じていたためか、女優になってから後年、「本名は?」と質問された際には「ノーマ・ジーン・ベイカーです」と答えている。
ノーマという本名の由来は、母グラディスが、当時好きだった女優ノーマ・タルマッジからとったとされる。母グラディスは、「モンロー宣言」で知られるジェームズ・モンロー大統領が先祖であると周囲にもらしていたが、娘のモンロー自身は一笑に付したとされる。
日本語訳されている評伝のなかには、モンローは孤児だったと書いているが、母親がいたのだから日本語では孤児と呼ぶことは出来ない。これは彼女が孤児院(orphanage)や養子として育てられたために受けた誤解である。モンローには異父姉妹の姉が居る。姉のことは後年、女優になってからも気にかけていたという。その姉はモンローの葬儀に参列している。
モンローの映画を手がけた20世紀フォックスはモンローのプロフィールで、年齢を2歳さばを読んで発表していた。そのため映画解説者の淀川長治も、彼女が34歳で亡くなったと、TVの『日曜洋画劇場』の解説で言ったことがある。
19歳の頃に雑誌『YANK』に掲載されたものモンローの母親は精神病を患っていた。グレース・マッキー(後Goddard)が、彼女の保護者になった。マッキーが1935年に結婚した後で、モンローはロサンゼルスの孤児院へ、その後伝えられるところでは性的虐待及びネグレクトで支配された養家へ連続して送られ、その事に起因してか、吃音症を患うようになってしまった。当時の大統領の政策で、里親にはいくらかの補助金が支給されたため、お金目当てで子供を引き取る家もあったとされ、モンローもいくつもの家をたらい回しにされたり、大事に扱われなかったりした。
16歳で、母の家の近所に住むジム・ドハティと最初の結婚をする。その後、スカウトされてモデルとして活動し始める。彼女の夫はモデル業に理解を示さなかったため、結婚から4年で離婚。
当時所属していたモデル会社の名は、「ブルーブック・モデルズ・エイジェンシー」。ブルーブックとは、いまでいうアダルト本のことであり、モンローがヌードモデルをしていたことも頷ける話である。
1947年に20世紀フォックスの『嵐の園』という映画に端役で初出演するが、あまりぱっとせずに契約を切られてしまう。しかし女優への夢を諦めきれなかった彼女はコロムビア映画に移籍、『コーラスのレディたち』で準主役となる。しかしコロムビア映画とはその映画一本のみで終わってしまう。その後は再びヌードモデルなどをしながら演技の勉強をし、エージェント(交渉代理業者)を探す日々が始まる。
トップスターに
米軍の慰問に訪れたマリリン(1954年2月17日)1951年にエージェントのジョニー・ハイドの尽力で『アスファルト・ジャングル』、『イヴの総て』に出演、注目される。以後、数本の映画に脇役で出、1952年の『ノックは無用』で初主演。1953年『ナイアガラ』での腰を振って歩く仕草(モンロー・ウォーク)で世の男性の注目を集める。続く『紳士は金髪がお好き』、『百万長者と結婚する方法』や『七年目の浮気』が大ヒットして一躍トップスターとなった。
1954年2月1日に元野球選手ジョー・ディマジオと結婚。読売ジャイアンツの招きもあり、新婚旅行を兼ねて日本を訪れたが、結婚生活は9か月しか続かなかった。
野球の仕事を兼ねていたディマジオは、滞在中忙しく外へ出かけることが多かった。野球に興味のなかったモンローは一人ホテル(旧帝国ホテル)で待つ日々が続いた。そんな折、朝鮮戦争で駐留していた在韓米軍を慰問してほしいという依頼が舞い込む。暇を持て余していたモンローには断る理由がなかった。行くなと反対するディマジオと喧嘩するようにして韓国へ向かった。彼女は戦車に乗り、多くの荒くれ兵士たちを前にして歌い、自分が一番光れる場所で光り輝いた。だが、韓国から帰ってきたモンローは、風邪を引いてしまう。治療のため呼ばれたのが、指圧の心の故浪越徳治郎であった。彼は全裸のモンローに指圧を施した。
その後、セックスシンボルを脱したかった彼女は、ニューヨークに移りリー・ストラスバーグが主催するアクターズ・スタジオで演技の指導を受けている。マーロン・ブランドと『欲望という名の電車』を演じ好評を博したことは彼女に自信を取り戻させた。1955年ディマジオと離婚。
1956年には劇作家のアーサー・ミラーと結婚するが、1957年頃から不安定な状態が続き、睡眠薬を飲み過ぎたりして、精神病院に入ったりもした。アンナ・フロイト(ジークムント・フロイトの娘)には境界性人格障害と診断されたが、正確なところは分からない。
1961年にアーサー・ミラーと離婚。この頃、ジョン・F・ケネディと交際していたと言われている。同年に封切られた映画『荒馬と女』の評判が悪く、また共演のクラーク・ゲイブルが撮影終了後に亡くなったこともあって不安定になり再び精神病院に入院。この時、よりを戻した(2番目の)元夫ディマジオが彼女を支えた。
1962年、映画『女房は生きていた』の主演になるが、たびたび撮影をすっぽかすため制作はほとんど進まなかった。5月(亡くなる3か月前)には、マディソン・スクウェア・ガーデンで催されたジョン・F・ケネディ大統領の45歳の誕生日パーティー(司会は俳優ピーター・ローフォード(ケネディの妹の夫))で『ハッピーバースデートゥーユー』を歌い、「いつ死んでも悔いはない」とケネディに言わしめた(なお、ケネディは翌年凶弾に倒れている)。『女房は生きていた』の主役は結局降ろされた(のちにドリス・デイ主演で公開)。しかし、数年前にFOXニュースが20世紀フォックスの倉庫から発見した資料によると、FOX首脳部との会談で、そりの合わなかった監督を降板させ、モンローを復帰させる契約が交わされていた事が分かった。さらに、「何という行き方!」というミュージカル大作への出演も決まっており、モンローが配給会社から見捨てられ、失意の中で死んでいったという仮説は成立しなくなることが分かった。
死と波紋
1962年8月に36歳で死去。死の直後、マスコミでは死因は睡眠薬の大量服用による急性バルビツール中毒で、自殺の模様と大々的に報道され、世界に多大な衝撃・悲嘆が駆け巡った。ただのドラッグ・オーバードーズであるとの声もある[1]。
しかし1980年前後以降は自殺説は影を潜め、何者かによる謀殺説が根強く叫ばれ続けている(謀殺説はモンローの死後間もない時期から存在していた)。現場からは自殺に使うはずのコップは発見されておらず、また彼女が遺体で発見されたとき、手には受話器が握られていたものの、電話局からは通話記録はなく、部屋からは彼女の日記(赤い手帳)が消えていた。
急性バルビツール中毒による体の不調を受けて救急車を自ら呼ぶために受話器を取ったものの、ダイヤルする前にこと切れたという説の他に、仮に謀殺だとすると、電話の通話記録の改ざん・隠蔽を行うことができる政治力の持ち主が関わっていたとする主張がある[2]。
なお、ジョン・F・ケネディ大統領と不倫関係にあったことが死後複数の証言から暴露された上、お互いを紹介したのがマフィアの大ボスに関係しているフランク・シナトラであったと言われていることが、この謀殺説を後押ししている。また、弟であり当時の司法長官だったロバート・F・ケネディとも不倫関係にあったと噂されていて、常に会話の内容をメモしていた赤い手帳が表に出るのを避けたという話もある。
モンローを司法解剖した監察医は、トーマス野口こと野口常富である。よく日系2世と間違われるが日本生まれの日本人である。またモンローに戒名をつけた人がいる。キックボクシングの解説でも知られた寺内大吉和尚。1973年8月5日、東京都世田谷区の大吉寺本堂で、モンロー13回忌の法要が営まれた。同寺の住職であった寺内はお経をあげ、モンローに「鞠利院不滅美色悶浪大姉(まりりいんふめつびしょくもんろうだいし)」という戒名を捧げた[3]。
その墓所は故郷ロサンゼルスのウエストウッド・メモリアルパークにある。彼女の死後、元夫ディマジオの計らいで、定期的に赤いバラ(品種:アメリカン・ビューティー)が供えられていた。ディマジオの亡き後は、ファンクラブなどのボランティアの手で続けられていて、今もバラが絶えることはない。
主な出演作品
1947年:『嵐の園』でスクリーンデビュー。『Dangerous Years』
1948年:『Ladies of the Chorus』
1949年:『Love Happy』
1950年:『彼女は二挺拳銃(A Ticket to Tomahawk)』『アスファルト・ジャングル(The Asphalt Jungle)』
1950年:『イヴの総て(All About Eve)』
1951年:『ふるさと物語(Home Town Story)』
1952年:『ノックは無用(Don't Bother to Knock)』『モンキー・ビジネス(Monkey Business)』
1953年:『ナイアガラ(Niagara)』
ナイアガラより
1953年『紳士は金髪がお好き(Gentleman Prefer Blondes)』
1953年:『百万長者と結婚する方法(How to Marry a Millionaire)』
1954年:『帰らざる河(River of No Return)』
1954年:『ショウほど素敵な商売はない(There's No Business Like Show Business)』
1955年:『七年目の浮気(The Seven Year Itch)』
1956年:『バス停留所(Bus Stop)』
1957年:『王子と踊子(The Prince and the Showgirl)』
1959年:『お熱いのがお好き(Some Like It Hot)』 - ゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ミュージカル・コメディ部門)受賞
1960年:『恋をしましょう(Let's Make Love)』
1961年:『荒馬と女(The Misfits)』
その他
セクシーなブロンド美女が現れるとその人物を「マリリン・モンローの再来」という事がある。
マリリン・モンローの再来といわれている人物
マドンナ(口元のホクロの位置が同じだった為によく言われていた)[4]
アンナ・ニコル・スミス(マリリン・モンローの人生そのものに憧れており「マリリン・モンローの様な死に方をしたい。」と発言していた。皮肉にもモンロー同様に謎多き死に方をしており、その通りとなった。)[5]
スカーレット・ヨハンソン[6]
エヴァ・ハーツィゴヴァ(『90年代のマリリン・モンロー』と称された)[7]
パリス・ヒルトン(ただし、自称)[8]
井上和香(マリリン・モンローとスリーサイズが同じであるとして、和製モンローと称されたこともあるが、井上のスリーサイズは上から90-60-90である為、実際は異なる。こう称した小堺一機がマリリン・モンローのスリーサイズを間違えて覚えていたようである。)[9]
モンロースマイル
親の愛情に恵まれていない子供ほど、周囲の大人に気に入られようとして魅力的な笑顔を振りまく傾向があることを示す心理学用語。マリリン・モンローは、チャーミングな笑顔で多くの人々を魅了したが、その笑顔は不遇な子供時代に周囲の大人たちの歓心を買うため自然と身に付いたものだと言われている。オーディションなどで笑顔の印象的な子役を選んでみると、両親の離婚など家庭に複雑な事情を抱えている子供が多いことから、モンローにちなんで名づけられた。
モンロー・ウォーク
マリリン・モンローはお尻を通常よりも大きく左右に振ってセクシーに見える歩き方をすることで有名で、これを指して「モンロー・ウォーク」と呼ぶ。この独特な歩き方の秘密は、彼女が意図的に左右のヒールの長さを変えていることにある。おおよそ、左のヒールよりも右のヒールを4分の1インチ(6ミリメートル強)程度短くしているとされる。
関連作品
映画『マリリンとアインシュタイン』(INSIGNIFICANCE、1985、米):監督 ニコラス・ローグ、出演:テレサ・ラッセル、ゲイリー・ビューシイ、トニー・カーティス
映画『ノーマ・ジーンとマリリン』(Norma Jean and Marilyn、1996、米):監督 ティム・フェイウェル、 出演:アシュレー・ジャド、ミラ・ソルヴィノ、ジョシュ・チャールズ、ピーター・ドブソン
ノンフィクション『マリリン・モンローの真実』(アンソニー・サマーズ)
関連事項
ウィキメディア・コモンズには、マリリン・モンロー に関連するマルチメディアがあります。ジョン・F・ケネディ
ロバート・ケネディ
ジョー・ディマジオ
シャネルNo.5
アンディー・ウォーホル
ブリジット・バルドー
ヒュー・ヘフナー
ユーニス・マレー
向井真理子
浪越徳治郎
モンロー (小惑星)
参考文献
亀井俊介著『マリリン・モンロー』岩波書店[岩波新書]。1987年7月発行。ISBN 4004203813
亀井俊介著『アメリカでいちばん美しい人――マリリン・モンローの文化史』岩波書店。2004年12月発行。ISBN 400022025X
外部リンク
マリリン・モンロー公式サイト(英語)
マリリン・モンロー PLAYBOYオンラインのプレイメイト紹介(英語)
モンローとグリーンへのトリビュートサイト(英語)
マリリン・モンロー - Internet Movie Database(英語)
マリリン・モンロー- allcinema
マリリン・モンロー at Find A Grave(英語)
脚注・出典
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^ アンソニー・サマーズ 『マリリン・モンローの真実(下)』 中田耕治訳、扶桑社〈扶桑社ミステリー〉、1988年、250・254頁。ISBN 978-4594003166
^ ロバート・スレイツァー 『マリリン・モンロー他殺の証明』 仙名紀訳、朝日新聞社、1993年、314頁。ISBN 978-4022565730
^ 作家・寺内大吉と詩人・白石かずこのインタビュー記事「鞠利院不滅美色悶浪大姉はアメリカ民主主義の匂いがした」『サライ』4巻10号、通巻65号、30-31頁、小学館、1992年5月21日。
^ OnGen. "マドンナ特集". 2008年9月29日 閲覧。
^ J-CAST. "資産550億円ベビィ!DNAパパは「死んでも離さない」". 2008年9月29日 閲覧。
^ 『THE BIG ISSUE JAPAN 59号』より
^ X BRAND. "輝きを取り戻したスーパーモデルたちの謎に迫る!". 2008年9月29日 閲覧。
^ シネマトゥディ (2008年2月8日). "パリス・ヒルトン、ショッキング・ピンクのドレスで「わたしは現代のモンロー」". 2008年2月19日 閲覧。
^ アイトピックス! (2003). "井上和香 ファーストVIDEO&DVDの発売イベント


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更新楽しみにしてまーす。
またみにきますね!